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![]() | 自分思考 (2011/09/21) 山口 絵理子 商品詳細を見る |
何にせよ、まずは人の形を真似て、それを破り自分の形として始めて一つの出発点だと思う。
紹介した三冊の著者である山口絵理子さんは正に、その形を学び、それに疑問を覚えてから形を破り全く異なった取組を実現した典型。
まず高校時代までは柔道に打ち込む日々で、男子の柔道部員と交じり練習を重ねた。
受験期間も三ヶ月という短い期間で慶応大学に入学。竹中平蔵ゼミにて発展途上国支援を学ぶ。
更に大学のインターンにて国際援助機関にて欧米のエリートの環境で発展途上国支援の現場とその取組を学ぶ。
しかし、先進国による発展途上国への支援を行った従来通り行った所で、本当にその国の困っている人々に支援は伝わっているのかという疑問にぶつかる。
これは、この環境で学ぶ人達が誰もが向き合う問題だが、特に欧米のエリートの人達はそのような機関に属しながら、自分達が現地の人達と同じ目線に立って本質的な問題と向き合わない。私見だが発展途上国への支援を散見し思うところ。
山口絵理子さんは、そのような発展途上国に内在する現状の問題と向き合い、自問自答しネットで「アジア 最貧国」というワードで検索しバングラデシュという国を発見する。
【裸でも生きる】では、実際にバングラデシュに滞在し、バングラデシュの大学院で学ぶ事を決意する様子が描かれる。何も頼れる人や日本のように安定した住居の生活環境もない我々の想像を絶する苦難の状況において、それを乗り越えていく様子が描かれる。
心身共にめちゃくちゃになりながら、アジア最貧国の環境を脱する方法として、何かできないのか苦心する様子には胸を打たれた。
その後、三井商事からバングラデシュに派遣されている立場の人などの現地による支援や地道なフィールドワークを通じて、
バングラデシュ独自の輸出品であるジュート(麻)の存在を知り、ジュートを加工したものや牛革によるメイドインバングラデシュの鞄作りを思いつく。
これを行動に移すべく、バングラデシュ内の工場を回り、生産ラインの確保に奮闘する。
誰も頼れる人のいない状況で、このような行動に移せるモチベーションの維持が本当にすごい。
更にその後、鞄製造完成後の日本での会社設立なども物凄いドラマの数々、【裸でも生きる2】、【自分思考】には日本でのマザーハウスの会社設立の苦難の様子が描かれる。
やはり山口絵理子さんの行動を通じて物事の本質に向き合い、行動
することの大切さを学ぶ。冒頭でも書いた様に特に欧米のエリート思考の枠組みでは、実際の発展途上国の環境に身を起き、自らを犠牲にしその国の産業の発展に尽くすという行動はあり得ないのではないか。
山口絵理子さんの行動が何か戦前の日本人とも重なる、何か日本人の特色、八紘為宇の精神を伺える。
![]() | 誰が殺した? 日本国憲法! (2011/06/01) 倉山 満 商品詳細を見る |
現在の日本国憲法の成り立ちの経緯について非常に多角的、詳細に書かれた内容で大変勉強になった。
まずGHQによって一週間で作られたという草案作成の経緯。目安箱のように設置された一般国民の意見や要望と、
民政局の人間が日比谷図書館に通い各国の憲法の気に入った部分だけを取り入れたという三権分立も明確でないパッチワークに過ぎないという。
ケーディズやホイットニーが中心になって作り上げたこの草案は英語のレベルとしても酷いもので、
草案に目を通した幣原喜重郎は「大変に貧しい英語」と表現している。
ケーディズやホイットニーは野蛮な日本人に民主主義を教えるという強い意志があったそうだが、西洋人の倫理観こそ日本人からすれば遠く遅れているもので、
中世における宗教戦争、30年戦争の後に、ようやく「人を勝手に殺してはいけない」「人間が心の中で何を考えていても、それを認める」という概念がようやく芽生えつつあった。
それだけ、西洋の違う宗教、人種を扱う上での倫理観とは未熟なものであり、自分たち以外は全て野蛮人である認識が根日本を占領したGHQの面々はアメリカにおいて社会主義化を目指したニューディーラーであり、
アメリカでの社会主義化が失敗したことで舞台を日本に移し目標を達成しようとした。
日本を統治したマッカサー自身も、日本での成果が残せなければ、大統領のトルーマンから罷免される立場にあった。
その為、「この憲法草案が通らなければ、ソビエトの意向を抑えられない状況に陥る」という形で泣きつき天皇を人質にとる形で
成立させた。よって憲法問題調査委員会(松本委員会)によって作成された松本試案は却下された。
通常であれば憲法の実態を得ないものであったGHQ作成の憲法に日本人としてお墨付きを与えたのが、東京大学法学部の宮沢俊義であり、
宮沢の唱えた八月革命説(敗戦を受け入れた時点で日本の君主制は損なわれ共和国となったという解釈)が日本国憲法発布を下支えした。
今、現状の日本の左傾化というのものの根源はこの宮沢の説が発端となっているものだと思う。
よって、東大の法学部は左傾化した思想を根源に宿し、その思想が一般国民まで蔓延したのが今日。
これら西洋の倫理観の発展を踏まえ、アメリカのニューディーラーが占領期の日本を蹂躙したこと。
さらにそれにお墨付きを与えた宮沢俊義の狂喜ともいえる革命説らを詳細にかつわかりやすく纏めた素晴らしい内容の一書であった。
![]() | 北朝鮮 拉致工作員 (1998/03) 安 明進 商品詳細を見る |
![]() | 核と女を愛した将軍様―金正日の料理人「最後の極秘メモ」 (2006/06) 藤本 建二 商品詳細を見る |
北朝鮮関連の書籍は脱北者の証言を元にする書籍など、数が多いが北朝鮮の体制内部や金正日をはじめとするロイヤルファミリーに関する情報は殆ど表に出回らない。
ここで紹介する二書は日本や韓国におけるスパイなどを養成する特殊機関、更に金正日の側近の料理人とし生活を送った経験を元に詳細な北朝鮮内部の状況を暴き出している。
前書の著者である安明進氏は93年に韓国内部へのスパイ活動を行う途中、韓国へ亡命。
その後小泉訪朝前に北朝鮮による国家犯罪である拉致事件について日本政府に進言していたが、97年当時は金丸による訪朝、国交回復が進められていた時代でアジア局長の外務省官僚は安氏の進言に対し「そのような事実はない」と拉致事件の存在を否定したというのが北朝鮮を巡る一つの側面として重要。
安氏は1987年に朝鮮労働党中央委員会直属の政治学校、金正日政治軍事大学にて六ヶ月の過酷な訓練を行い特殊スパイとして養成される。北朝鮮国内では特殊機関の人間として特権的な立場の生活を送っていた。
韓国航空機爆破事件にて捕まった金賢姫も同じ特殊スパイとして同大学にて訓練を受け安氏の先輩にあたるという。
簡単に訓練の様子を説明すると、
一般的に旧来の日本の空手や相撲でも用いられるような股割りにより股関節を外し脚の稼働域を広げ、コンクリートを全力で殴り拳の骨を骨折させ、骨が元に戻る前に何度もコンクリートを更に殴り、痛みを感じないようにするなど。
持久力を養う為に重さ25kgの砂袋を背負い、40kmの山道を3時間半で走り切る。一年生の時に水泳として10kmを三時間以内で泳ぎ切る。後に二年生となれば、一日で50kmを泳ぎ切るなどといった訓練により養成されていった。
私見だが、この北朝鮮の特殊機関はそもそも戦時中に日本の特殊機関として機能していた陸軍中野学校のノウハウを取り入れられていると聞く。
恐らく北朝鮮に残った日本人特殊機関の人間が金日成に教え引き継いだのではないかと推測する。
金正日軍事政治学校での日本語を学ぶ際に、教師を行っていたのが横田めぐみさんら日本人拉致被害者。
著者は学校時代に、横田めぐみさんに似る日本人女性を目撃している。
著者の安氏は横田めぐみさんの拉致を実際に行った先輩スパイから、その拉致の様子についても聞き出す機会があり、本書の中で詳細に描かれている。
北朝鮮内部の特殊機関の詳細な構造と、それに携わり特権的な立場を有する人間らの生活など非常にわかりやすい内容で纏められている。
後書の方はテレビにもよく登場する金正日のお抱えの料理人として北朝鮮で長きに渡り生活を送っていた藤本健二氏による書籍。
此方の方は身近な金正日のプライベートな様子などが描きだされ、独裁者には変わりないが我々のイメージとはまた異なった様子を伝える。
金正日自身、様々なアメリカや日本の映画を観ており、特に「寅さん」の映画を大変好む。日本語もかなりのレベルで話せるようで、藤本氏との会話も日本語が殆どだった様子。
金正日としては多くの部下は存在するが、それらは褒美が目当ての人間ばかりで本当に心を許せる人間というのは数少なかったようだ。
藤本氏は日本へ鮨ネタの買い出しに行く帰りに空港で公安に止められ拘束、北朝鮮へ帰る事ができなくなったりするなど、一般的な金正日の感覚においては北朝鮮への帰国後に強制収容所に連れて行かれるような過ちやミスを行っている。しかし、そのような強制収容所での労働といった自体には発展せず二年間の外出禁止などといった最低限のペナルティで済んでいる様子などから藤本氏の役割は非常に大きかったものだとされる。
そして藤本氏は拘束の解けた後に、再び鮨ネタを買い出しに行くという都合を作り日本へ。その途中の飛行機の中で搭乗員にメモで脱北の意思を伝える。機長から日本の管制室にその旨を伝え日本に到着後、身柄を公安に移し脱北となる。
12日半蔵門駅のすぐ近く、PHP総合研究所のPHPホールにて開催された竹田恒泰さんによる竹田研究会の纏め。
第21代雄略天皇のお話
この雄略天皇の時代は5世紀だといわれており、埼玉の稲荷山古墳と熊本の江田山古墳にて同じ大王の名前が書かれた銅剣が見つかっている。
その銅剣に明示されている
「大泊瀬幼武」と「ワカタケル」と共通し読むことができ、そのワカタケルが雄略天皇を指すといわれる。
五世紀の当時において九州の熊本から埼玉まで共通の天皇による体制が存在していたこととなる。
更に「倭の五王」と呼ばれ宋時代に朝貢をしていた日本の王様の話がある。
倭の五王と呼ばれるのは
天皇系譜から「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇という説が有力。倭の五王の最後が第21代の雄略天皇となる。
この倭の五王は支那の王朝に対して地域を治める為のお墨付きをえる為に朝貢を行っていた。
朝貢するメリットとしては、その地域を治める事へのお墨付きをもらう事で、他国から支那の皇帝の権威を借りる事で攻められなくし、平和が保たれ内政を充実させることができる。
更に朝貢の見返りとして与えられる冊封にて、朝貢で持っていく献上品よりも多くのお土産をもらう事ができる。
支那の王朝としても、気前よく多くのお土産を与える事でその地域を治める王を手なづけ、反乱の機会を無くすというメリットがある。
支那の王朝の中心(中華)の周の多くは不毛の地であり隣国とは遠く離れている。故に軍隊を反乱する地域に送れば中央はガラ空きになり、また違う他国の勢力に滅ぼされてしまう。それを阻止する為に隣国を上手く手なづけ、地方に軍隊を送る事を回避したいという事情があった。
隣国の王が支那の王朝からお墨付きとして与えられるのが「大将軍」か「将軍」という称号。
日本と同じく朝貢をしていた高句麗や新羅は「大将軍」の称号を貰えていたが、日本の朝貢では「大将軍」ではなく「将軍」の称号しかもらえなかった。
大将軍の称号を貰えるように、雄略天皇は宋の皇帝に向かって努力の成果をアピールする為に手紙を書いたりしていたが、その努力も虚しく宋自体が滅ぼされ隋となってしまった。
この経緯の中で雄略天皇は朝貢冊封の体制から脱する事を決意したといわれる。
雄略天皇は冊封体制から外れることのデメリット、支那の王朝に滅ぼされるリスクを負いながらも鎖国を行い内政の充実や軍事力の充実に努めた。
そして朝貢を辞め鎖国をしてから100年後に聖徳太子の使者が隋を訪れ献上品を与える朝貢を行った。
しかし、その場で読まれたのが有名な
「日出ずる国の天子から日没する国の天子へ」という書文。
つまりは雄略天皇の時に支那の王朝を中心とする秩序から抜け出し、自らで独自の秩序を築き、貴方と私は同等の立場ですよと表明。
通常であれば朝貢と冊封はセットだが、聖徳太子の使者は「あくまで献上品は与えるけど、お土産はいりませんよ」と、冊封のお土産は断った。
正に雄略天皇の決断した事は日本の自主独立の始まりであり、その当時の中華秩序では有り得ない発想。
逆に冊封体制のまま自主独立を目指さず近代まで続けたのが朝鮮。
その場しのぎの考えでは、一時的な平和は保たれるかもしれないが、そのままでは国力や意識は低迷しいつか国自体が滅んでしまう。その事を予見し決断した雄略天皇は素晴らしい。
今の日本もアメリカの保護のもと一時的な平和を享受する環境の中で国力や民の意識は劣化している。自主独立の先駆けとして雄略天皇の決断から学ぶ事は非常に大きい。
第21代雄略天皇のお話
この雄略天皇の時代は5世紀だといわれており、埼玉の稲荷山古墳と熊本の江田山古墳にて同じ大王の名前が書かれた銅剣が見つかっている。
その銅剣に明示されている
「大泊瀬幼武」と「ワカタケル」と共通し読むことができ、そのワカタケルが雄略天皇を指すといわれる。
五世紀の当時において九州の熊本から埼玉まで共通の天皇による体制が存在していたこととなる。
更に「倭の五王」と呼ばれ宋時代に朝貢をしていた日本の王様の話がある。
倭の五王と呼ばれるのは
天皇系譜から「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇という説が有力。倭の五王の最後が第21代の雄略天皇となる。
この倭の五王は支那の王朝に対して地域を治める為のお墨付きをえる為に朝貢を行っていた。
朝貢するメリットとしては、その地域を治める事へのお墨付きをもらう事で、他国から支那の皇帝の権威を借りる事で攻められなくし、平和が保たれ内政を充実させることができる。
更に朝貢の見返りとして与えられる冊封にて、朝貢で持っていく献上品よりも多くのお土産をもらう事ができる。
支那の王朝としても、気前よく多くのお土産を与える事でその地域を治める王を手なづけ、反乱の機会を無くすというメリットがある。
支那の王朝の中心(中華)の周の多くは不毛の地であり隣国とは遠く離れている。故に軍隊を反乱する地域に送れば中央はガラ空きになり、また違う他国の勢力に滅ぼされてしまう。それを阻止する為に隣国を上手く手なづけ、地方に軍隊を送る事を回避したいという事情があった。
隣国の王が支那の王朝からお墨付きとして与えられるのが「大将軍」か「将軍」という称号。
日本と同じく朝貢をしていた高句麗や新羅は「大将軍」の称号を貰えていたが、日本の朝貢では「大将軍」ではなく「将軍」の称号しかもらえなかった。
大将軍の称号を貰えるように、雄略天皇は宋の皇帝に向かって努力の成果をアピールする為に手紙を書いたりしていたが、その努力も虚しく宋自体が滅ぼされ隋となってしまった。
この経緯の中で雄略天皇は朝貢冊封の体制から脱する事を決意したといわれる。
雄略天皇は冊封体制から外れることのデメリット、支那の王朝に滅ぼされるリスクを負いながらも鎖国を行い内政の充実や軍事力の充実に努めた。
そして朝貢を辞め鎖国をしてから100年後に聖徳太子の使者が隋を訪れ献上品を与える朝貢を行った。
しかし、その場で読まれたのが有名な
「日出ずる国の天子から日没する国の天子へ」という書文。
つまりは雄略天皇の時に支那の王朝を中心とする秩序から抜け出し、自らで独自の秩序を築き、貴方と私は同等の立場ですよと表明。
通常であれば朝貢と冊封はセットだが、聖徳太子の使者は「あくまで献上品は与えるけど、お土産はいりませんよ」と、冊封のお土産は断った。
正に雄略天皇の決断した事は日本の自主独立の始まりであり、その当時の中華秩序では有り得ない発想。
逆に冊封体制のまま自主独立を目指さず近代まで続けたのが朝鮮。
その場しのぎの考えでは、一時的な平和は保たれるかもしれないが、そのままでは国力や意識は低迷しいつか国自体が滅んでしまう。その事を予見し決断した雄略天皇は素晴らしい。
今の日本もアメリカの保護のもと一時的な平和を享受する環境の中で国力や民の意識は劣化している。自主独立の先駆けとして雄略天皇の決断から学ぶ事は非常に大きい。
縁があって、明治神宮の武道場である至誠館にて毎月開催されている至誠館館長荒谷卓さんの講話を拝聴させて頂きました。
荒谷先生は三島由紀夫の文化防衛論をテキストに講話をされました。
まず文化防衛論の冒頭にて三島が記した
『何かが絶たれている』…この違和感は日本人の誰もが戦後の中で感じながら、何かわからず今日まで歩んできた。
日頃私達が接する文化とは何なのか。名ばかりが過去の先人から受け継がれてきたもののように思えるが、本質的なものはきちんと備わっているのだろうか。
(抜粋)『文化はものとして安全に管理され「人類共有の文化財」となるべき方向へ平和的に推進された。』
確かに戦前にも戦後にも柔道や剣道は存在しているが、戦後の武道と名のつくものは占領軍により一度禁止され、その後、アメリカにとって敵性がないものだとお墨付きを得て再開し今日に至っている。
「平和的に推進されている」…確かに聞こえはいいが、現在の価値観で判断した世界遺産や日本の武道、お祭りといったものに果たして本来の意味は存在しているのか。
本来の意味とは、先人達による精神を受け継ぎ形を創造しているのかというもの。
例えば、世界遺産であるギリシャのパルテノン神殿から、ギリシャ時代のアテネ神を祀った当時の人々の精神性が受け継がれ今日にまで継承され、そこを訪れる事で当時の精神性に触れ魂を発揚する事はできるのか。
継承されるはずの精神が今日まで残っていなければ、それは形を残しただけの魂の抜けた廃墟と同じなのではないのか。
戦後の武道と名のつくものはパルテノン神殿と同じように当てはまり、形は存在しているが、継承は止まり魂が宿っているとはいえない
(オリンピックなどで柔道選手がガッツポーズをする風景など正に代表的)。
そのような文化は魂の宿らない文化は『博物館の死んだ文化』だと形容される。
本来、日本の文化と呼べるものは精神が先にあり形を作っている。つまりは形が先にあり、後付けで意味があるのではない。
武士道と呼ばれるのも特異な武士の思想なのではく、継承されてきた精神を武道という形で日常生活に取り入れ、自らの生涯を通じて先人の方法を真似る事から始まり、会得し打ち破り、更に新しく創造するといった循環の事を指す。
実は文化や武道の枠組みを超えて、これらの理論は日本の国体と当てはまる。125代の長きに渡って天皇という存在が今現在まで継承され、その天皇を手本にその時代その時代の人々がより良い社会を築く為に実践してきたことにより今日がある。
天皇は文化を垂直に継承する主体であり、国民はそれを多様に反映させていく主体であった。どちらか一方では決して成り立たない。
その継承を守るということは、守りに専念するのではなく戦いである。守るという事は現状維持さえ守れない。明治維新は国を守る為に旧式の体制と戦い改革を成し遂げた。その根底には継承されてきた精神を守るという意思がある。
それまでの伝統や継承を破壊し改革することを革命という。
継承されてきたものは自然に生み出された日本の君民一体は、何かの目的で人為的に作られた全体主義とは異なる。
…以前から、よく耳にした垂直軸の継承と水平方向の意識…これらの話と国体と文化の関係性など初めて知った内容が多く大変勉強になった。
改めて三島由紀夫が戦後最大の空洞を把握していた事は凄い。
荒谷先生は三島由紀夫の文化防衛論をテキストに講話をされました。
![]() | 文化防衛論 (ちくま文庫) (2006/11) 三島 由紀夫 商品詳細を見る |
まず文化防衛論の冒頭にて三島が記した
『何かが絶たれている』…この違和感は日本人の誰もが戦後の中で感じながら、何かわからず今日まで歩んできた。
日頃私達が接する文化とは何なのか。名ばかりが過去の先人から受け継がれてきたもののように思えるが、本質的なものはきちんと備わっているのだろうか。
(抜粋)『文化はものとして安全に管理され「人類共有の文化財」となるべき方向へ平和的に推進された。』
確かに戦前にも戦後にも柔道や剣道は存在しているが、戦後の武道と名のつくものは占領軍により一度禁止され、その後、アメリカにとって敵性がないものだとお墨付きを得て再開し今日に至っている。
「平和的に推進されている」…確かに聞こえはいいが、現在の価値観で判断した世界遺産や日本の武道、お祭りといったものに果たして本来の意味は存在しているのか。
本来の意味とは、先人達による精神を受け継ぎ形を創造しているのかというもの。
例えば、世界遺産であるギリシャのパルテノン神殿から、ギリシャ時代のアテネ神を祀った当時の人々の精神性が受け継がれ今日にまで継承され、そこを訪れる事で当時の精神性に触れ魂を発揚する事はできるのか。
継承されるはずの精神が今日まで残っていなければ、それは形を残しただけの魂の抜けた廃墟と同じなのではないのか。
戦後の武道と名のつくものはパルテノン神殿と同じように当てはまり、形は存在しているが、継承は止まり魂が宿っているとはいえない
(オリンピックなどで柔道選手がガッツポーズをする風景など正に代表的)。
そのような文化は魂の宿らない文化は『博物館の死んだ文化』だと形容される。
本来、日本の文化と呼べるものは精神が先にあり形を作っている。つまりは形が先にあり、後付けで意味があるのではない。
武士道と呼ばれるのも特異な武士の思想なのではく、継承されてきた精神を武道という形で日常生活に取り入れ、自らの生涯を通じて先人の方法を真似る事から始まり、会得し打ち破り、更に新しく創造するといった循環の事を指す。
実は文化や武道の枠組みを超えて、これらの理論は日本の国体と当てはまる。125代の長きに渡って天皇という存在が今現在まで継承され、その天皇を手本にその時代その時代の人々がより良い社会を築く為に実践してきたことにより今日がある。
天皇は文化を垂直に継承する主体であり、国民はそれを多様に反映させていく主体であった。どちらか一方では決して成り立たない。
その継承を守るということは、守りに専念するのではなく戦いである。守るという事は現状維持さえ守れない。明治維新は国を守る為に旧式の体制と戦い改革を成し遂げた。その根底には継承されてきた精神を守るという意思がある。
それまでの伝統や継承を破壊し改革することを革命という。
継承されてきたものは自然に生み出された日本の君民一体は、何かの目的で人為的に作られた全体主義とは異なる。
…以前から、よく耳にした垂直軸の継承と水平方向の意識…これらの話と国体と文化の関係性など初めて知った内容が多く大変勉強になった。
改めて三島由紀夫が戦後最大の空洞を把握していた事は凄い。














